全塾留年生扶翼会

なぜ全塾留年生扶翼會が作られたか?
ストーリー
慶應大学では、毎年2000人の留年者がいます。あなた自身か、あなたの周りに留年生はいますか。
一般的に留年とは、怠惰か素行不良によるものだとみられがちです。
しかし2000人の留年生がいれば、留年した理由も様々です。
あなたは留年していますか。そのうえでこのサイトを検索し、
たどり着いたのであればまずは一歩踏み出したも同じです。
いろいろ書こうと思ったのですがうまくまとまらないので
うまくまとまっている京都大学のサイトを見てください。
あなたは留年生でありながら、留年生があがくのを冷笑していませんか。
人の闘争を、自身の闘争を、無駄な努力だと思っていませんか。
まずは助け合いましょう。
留年した自身をみとめ、ここにたどり着いたあなたを、我々全塾留年生扶翼會は歓迎します。
真面目な解説
はじめに,
大学における「留年」は、一般に「失敗」「怠惰」「脱落」といった否定的な意味を帯びる。とりわけ日本の高等教育制度においては、進級・卒業のスムーズさが「優秀さ」の指標とされ、留年経験者は制度的に周縁化されやすい。そうした中で、「全塾留年生扶翼会」という団体の存在は、制度的逸脱をユーモアと批評性をもって再意味化する試みである。本稿では、この団体を文化社会学的に分析し、制度批判的ユーモアの可能性と限界を考察する。 ---
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留年というラベルの再構築,
,ハワード・ベッカーのラベリング理論によれば、逸脱とは行為そのものではなく、社会的に「逸脱」とラベル付けされることによって成立する。全塾留年生扶翼会は、「留年生」というラベルを自ら引き受け、あえて前面に掲げることで、その意味を再構築している。これは、逸脱のスティグマを共同体的語りによって中和し、むしろアイデンティティの核として再定義する文化的実践である。 ---
2.ユーモアによる制度批判,
,団体名に含まれる「扶翼」という語は、まるで公的支援団体のような響きを持つが、実際には制度批判的ユーモアとして機能している。ミハイル・バフチンの「カーニバル的笑い」に照らせば、これは大学という権威的制度に対する一時的な転倒と解放の場である。制度の中で声を奪われた者が、笑いを通じて語りの主体となることは、権力構造に対する逆説的な抵抗といえる。 ---
3.サブカルチャーとしての共同体形成,
,全塾留年生扶翼会は、制度から逸脱した者たちが孤立せずにつながるための象徴的な場を提供している。ピエール・ブルデューの文化資本論に照らせば、留年生は制度的文化資本を欠いた存在とされがちだが、ここでは「語り」や「ユーモア」を通じて独自の文化資本を再構築している。また、ディック・ヘブディッジのサブカルチャー論における「スタイルによる抵抗」としても、この団体の存在は解釈可能である。 ---
4.語りの政治性と倫理,
,留年経験を語ることは、単なる自己開示ではなく、制度の暴力性を可視化する政治的行為である。しかし同時に、語りは他者を沈黙させる力も持つ。制度批判的語りが、自己正当化や他者非難に転化する危険性も孕んでいる。したがって、語りの倫理と責任が常に問われるべきである。
結論,
全塾留年生扶翼会は、制度的逸脱をユーモアと共同性によって再意味化する、きわめて文化的に豊かな実践である。それは、制度の中で声を奪われた者たちが、語りと笑いを通じて新たな意味と連帯を創出する場であると同時に、制度批判の倫理と限界を問う鏡でもある。今後の課題は、このような語りがいかにして制度の変革に結びつくのか、あるいは制度の中に吸収されていくのかという点にある。
やろうとしていること
交流会
留年経験者同士の語り合い、情報共有
孤立感の緩和、相互支援
エッセイ・体験記の執筆 語りの共有
留年のスティグマを乗り越える文化の創出
制度批評的イベント
教育制度や評価制度についてのディスカッション
大学制度への批判的まなざしの共有
ユーモア企画
「留年川柳」「単位供養祭」など
留年を笑いに変える文化的実践
最終的な目標としては慶應の毎年の留年生2000人という数を生かしてなんらかの事をしたいです
例えば塾生代表の擁立、留年三田会の設立など
“Better a witty fool than a foolish wit.”
「愚かな知者より、機知に富んだ愚者のほうがましだ。」
“The fool doth think he is wise, but the wise man knows himself to be a fool.”
— As You Like It, Act V, Scene I
「愚か者は自分を賢いと思い、賢者は自分が愚かだと知っている。」
“I wasted time, and now doth time waste me.”
— Richard II, Act V, Scene V
「私は時間を浪費した。そして今、時間が私を浪費している。」
シェイクスピア
太宰治『津軽』 「大人とは、裏切られた青年の姿である。」 倉田百三『愛と認識との出発』 「夢をなくしたとき、人の青春は真に終わってしまうのだ。」 .坂口安吾『堕落論』 「人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。」
4 ニーチェのキリスト教批判の神学的援用
神学史のもうひとつの事例を取り上げてみよう。ヴィルヘルム期末期から既存の教会や神学への批判を繰り返していた『ディ・タート』誌に論文をしばしば投稿していた、ディックスと同年代の神学部外の神学者カール・レーフラーは、一九二四年に書かれた「今日の神学にとってのニーチェ」という論文の中で、ニーチェのキリスト教批判を分析した上で、今日のカール・バルトの神学はニーチェの批判したリッチュルの神学と同じ構造を持っているが故に、その批判を免れることはできず、ニーチェの批判によってカール・バルトの神学は消滅するという議論を展開している。レーフラーはかつて「パトモス・クライス」にさえ参加したバルトが、いつの間にかゲッティンゲン大学を皮切りに大学の教授となり、教義学大系に興味を持ち始めたということに疑念を持った神学者のひとりであった。彼自身は堅信礼教育における使徒信条の使用を拒否したために、牧師としての地位を剥奪され、自由キリスト者同盟という雑誌上の交流グループを一九二九年に立ち上げたひとりである。彼は神聖フロント世代のひとりであったが、二〇年代以降「転向」を果たした神学者たちの裏切りを批判した、フロントにとどまった神学者のひとりである。