全塾留年生扶翼会


「理科大留年記」
――科学の道を歩むはずが、迷いと怠惰に満ちた軌跡
青春を受験勉強に捧げ、滑り止めで入った理科大。だが、そこに待っていたのは、思考停止と惰性の学生生活だった。実験レポートを軽視し、再提出制度を悪用して単位を拾う日々。寮生活での協力体制に助けられた1年次を経て、葛飾キャンパスで孤立し、通学の虚無に耐える2年次。専門科目に舐めた態度で臨み、必修を大量に落とすも、ギリギリで進級。
3年次では再履修と実験の両立に苦しみ、ついにはたった一度の遅刻が致命傷となり、留年が決定。研究棟での迷子事件も重なり、教授の厳格さに打ちのめされる。留年後はサークル活動に逃避しつつ、自分の学科との適性を見つめ直し、大学院進学を真剣に考えるようになる。
この記録は、科学者としての道を歩むはずだった一人の若者が、怠惰と無計画に翻弄されながらも、少しずつ自分の進むべき方向を模索していく姿を描いた、苦くも誠実な青春の記録である。

"A Chronicle of Repeating a Year at Tokyo University of Science
—A path meant for science, derailed by confusion and laziness
Having devoted his youth to entrance exams, he entered Tokyo University of Science as a backup choice. Yet what awaited him there was a student life marked by mental stagnation and inertia. He neglected lab reports, exploited the resubmission system to scrape by with credits, and relied on the cooperative dormitory environment to survive his first year. In his second year, he became isolated at the Katsushika campus and endured the emptiness of commuting. He approached specialized subjects with a careless attitude, failed many required courses, but barely managed to advance.
In his third year, he struggled to balance retaking courses and conducting experiments. A single instance of tardiness proved fatal, resulting in his repeating the year. A mishap in the research building and the sternness of professors further crushed his spirit. After being held back, he escaped into club activities while reevaluating his compatibility with his major, eventually beginning to seriously consider graduate school.
This chronicle is a bitter yet sincere record of a young man who was supposed to walk the path of a scientist, but was tossed about by laziness and lack of planning, gradually searching for the direction he ought to take.
ENG TRANSLATION
東京理科大留年記
慶應ではないが、東京理科大も毎年20パーセントの学生が落第する、留年しやすい大学だと言われている。ひょんなことから、理科大の留年生と知り合い、手記を書いてもらう機会があったので、ここに掲載する。
実験レポートに真面目に向き合わなかった私は、たった一度の遅刻が致命傷になって4年生になれなかった。
やりたいことも、遊びのやり方もわからないまま、青春を受験勉強に費やした。そうして滑り止まったのは理科大の補欠合格レベルだった。将来について本当にまじめに考えてはいなかった。自己の存在意義を目の前の問題集に責任転嫁できる状況は、ある意味で最も思考から遠い状況で心地よかった。志望校に手が届かなかったが、かといって浪人をする気力は残ってはいなかった。
このような本質的に無気力で何も考えていない人間が、大学合格とともに虚無になってしまうのはある意味で当然だったともいえる。

・一年次
大学を入学して一年目は比較的うまくごまかすことができた。私のいた学部は基礎工学部(当時)であり、一年生は北海道にある長万部キャンパスで寮生活を行うことになっていた。これにより友人を作るハードルがかなり低くなったこと、1年目で学科ごと・選択科目ごとの分岐が少なく寮の同フロアの友人と協力できたこと、敷地内の寮であり部屋から3分で教室につく事など、好条件が重なり何とか進級することができた。クウォーター制(四半期制)で試験の期間が比較的短く、共通授業の効率化のために半期の前半後半で班分けした学生を入れ替えて同じ内容をやる講義の影響などで、友人同士でテスト対策をする風潮があったのも大きかったかもしれない。
しかし、ここでも問題児の片鱗はあった。実験レポートの期日を守ろうとする意志がなかったのである。剽窃を禁止する教えを過剰に真に受けるあまり、過去レポや友人を頼るという発想を無意識に否定していた。学生を班に分けて実験をローテーションで受けさせているので、通常は同級生からも過去レポが手に入るはずである。当然、能率は上がらない。困った私は、再レポというシステムを甘く見積もって悪用した。期日にはゴミを提出して再提出になり、事実上の期日延期を狙うものだ。もちろん成績はひどいものになるが、未提出を落単と定義している以上、単位自体は最低でも出るのだ。狙い通り、単位をもらうことはできた。

(閑話:長万部抑留)
ちなみに1年時に留年をしても、次の年は葛飾キャンパスへ移ることはできる。そこでもう一度、留年した人だけで一年生の授業を受ける。つまり葛飾キャンパスに片手人数だけ基礎工学部1年生(留年)がいるということになる。たまに再履修(キャンパスも講師も異なるのでそれに相当する)授業があると、かつての同級生に再開することがある。私もそうやって再履修を受けた。留年すると長万部に抑留されることはあるのかという質問が高校の友人からよくあるのでここに記しておく。
二年次
何とか進級し、今度は東京の葛飾のキャンパスに通うことになった。新たにサークルにも入り直し楽しく学生生活を過ごすことになるが、ここで特に考えなしに過ごしていた1年のツケを払うことになる。
具体的には実家からの通学に1時間半以上かかること、1年次に寮で仲良くなった(試験直前に部屋まで上がり込んで勉強合宿をできるほど都合よく深いところまで)友人が軒並み他学科だったことである。幸いノートを借りれるほど優秀で親しい同学科の友人はいたが、頭を突き合わせてテスト対策をする1年生のスタイルをやるような間柄ではなかった。
そして宿がないので試験前は虚空を睨みつけながら実家まで帰る必要があった。テスト直前で時間浪費が痛いのはもちろん、この往復3時間の虚無を強いられるのは毎日であり、吊革につかまって立ったまま眠る特技を取得することができた。地方の車社会にある今の職場でその特技を生かす場面はないし、周りからの理解も得られていない。
そして各学科に別れ、専門的な講義が始まった2年次、第一クウォーターで問題は起きた。必修の8割を落単してしまっていたのだ。あまりに講義をナメ腐っていたという他はない。しかし幸か不幸か、四半期分の8割であるので、計算上3年次に再履修しきれば留年はしない計算ではあった。この愚かな怠け者が反省するのはもっと後になる。

(閑話:二年次実験)
ほうほうの体で三年に進級した私はなかなかの悪名を轟かせていた。二・三年次の実験の授業では、実験の3日後に行われる講評のコマまでがレポートの締め切りであり、付き合ってられるかと再レポスキームを存分に活用して単位をもぎ取っていた。
過去レポを参照することをちっぽけなプライドから拒絶していたので、TAから言及してこいと言われた実験レポートの肝についてすっぽり抜け落ちており、本当に提出したから単位が与えられているような状況だった。一度あまりに適当なことを書いたため、助教の好奇心を刺激し、「それは当然こうで…ん?確かになんでこうなるんだ?俺も曖昧だったなぁ?よし!君の再レポはこの部分の考察も書いてくるように(アドリブ)!一緒に考えてみよう!」という本当に何物にも頼れない追加ミッションが発生していた。
過去レポに頼らないような変なまじめさは、実験科目で特に裏目に出ていた。夏休み直前、実験内容をポスターにまとめて発表し、どこまで理解できているか、ポスターの書き方について教授に血祭りにあげられるイベントがあったのだが、ペアを組まされた留年生の「これは単位要件に含まれていないらしいからフケよう」という提案に乗れず、一人で挑むことになったのだ。マジで来ないとは思わず、動き出したのも開催1週間前という泥縄で、突貫で作り上げたポスターにはちゃんと書くように明記されていた学籍番号と名前が書いておらず、直前にマジックで書きこんだ。あるべきものがないよりしょうがないという思考であったが、かなり異様であったらしく、手書き野郎として教授陣の印象に残ることになる。卒業以降の学科ではコロナの影響もあってか、余裕を持ったデータ入稿と印刷物に限るという要件定義がなされたそうだ。実際いない方がましだった。
三年次
二年の後半は何とか致命傷となる落単を避け、三年生になれた。私のいた学科は四年生になれず三年生をもう一度という留年方式であり、二年の負の遺産を清算し、三年次も綱渡りを渡り切れば留年はしない計算であった。TOEICが400点以上という別で与えられた進級要件も、入学直後の団体向けTOIECで突破していたので問題はなかった。信じられないのだが毎年この足切りに引っかかる人が必ずいるらしく、自分がいかに物理化学以外の部分で受験を突破したかを思い知った。
三年生第二クウォーター、必修の化学の再履修を取る必要があり、しかも三年次の学生実験と両立しながらという厳しいスケジュールだったため、対策を念入りに行った。結果として必修の化学の単位はとれていた。問題は実験だった。
三年次の実験の評定がDになっていたのだ。再レポを悪用しまくったとは言え提出はすべてしたはずなのに。
話を聞いてみると、この再レポスキームは本当に単位認定ギリギリの計算をしているらしく、一度でも遅刻などの内容以外の減点があった場合、即引っかかるようであった。
私は一度実験の講評の講義に遅刻してしまっていた。研究棟で迷子になってしまったのだ。講評を行う教室は実験室とは別で、教室のある研究棟は内部の構造がシンメトリーになっており、フロア中央に3つある大部屋のうち2つをパーテーションで区切って、各実験の担当が区画にいるという形式だった。中央の大部屋には名前のプレートがつけられておらず、生来の方向音痴が災いしてどの部屋かわからずにフロア内を彷徨ってしまったのだ。実験に割り当てられていない大部屋には全く関係のない院生が集まっておりかなり気恥ずかしい思いをした。この遅刻による減点がかなり大きいらしかった。しかも担当者はTAではなく、かなり厳格な教授だったのも災いした(この教授の担当講義で、遅刻した学生が差し出した遅延証明書を、出席による加点はないので自習した方がマシという理由で突っ返したのを見ている)。かくして留年は決まった。
(閑話:迷子)
なお、研究室配属された後も、研究棟では迷子に なっている。
院生が慣習で呼んでいる部屋の名前と、古い案内板でつけられた部屋の名前が食い違っていたので、呼び出された部屋と違う部屋に行ってしまった。特徴のないシンメトリーの癖にマップがちゃんとしていないのはまだ釈然としてない。

留年
留年が決まった件を両親に話したところ、重く受け止めてくれた。
留年それ自体を叱責されることはなかった。しかし父からは大学の環境についてのデメリット(通学時間が長いことなど)や留年するに至ったことは、自分で大学を選んだ結果として受け止めろと説かれてしまった。母は自棄を起こさないようにと怖いほど親身になってくれた。
母親譲りの図太さは損なわれていないと思っていたのだが。両親の対応を見ても恵まれていたと思う。
必修は取り切っていたので、留年時は実験のみに大学に通うことになる。
あとは選択科目の調整もあったが微々たるものであった。
教授会に頭を下げまくって懇願すれば何とかなったかもしれないが、それすらもしなかった。
成績が確定した後ということもあって無駄だったかもしれないが、
挑戦すらしなかったのはやはりちっぽけな自尊心のせいだろう。
留年中は特にすることもなく、サークル活動に精を出していた。バイトをするでもなく、普通の学生が必修との兼ね合いで見送ってしまう通年の授業を取ることも考えたが見送ってしまった。
今思えばかなりもったいないことをしたと思う。
この留年を機に、自分の学科とやりたいことの適合性について見つめなおし、大学院受験を本気で考えなおしたのは唯一の+だったと思う。
総評として、どうでもいいと思ったことに真面目に取り組み切れない怠惰な性根が招いてしまった留年だった。
留年した人たちに伝えたいこと、自分の感じた後悔は次の通り。
追加で必要になった学費については決して安い額とは言わないが、あなたの今までの人生に対して両親がしてきた投資と比べれば微々たる差なので、今すぐ工面や埋め合わせを考えるよりは、とりあえず卒業してしまってからどうリターンを出すかを考えたほうがいいのではないか。今更100万200万の追加費用でグダグダ悩むのはおこがましい。
しかし投資である以上、成果として一つ区切りをつけなくてはならない。そこを意識して、自身のゴールについて両親や周りと話し合ってみることをお勧めする。無計画なのもよくないが、開き直ってから見える世界もある。
また留年中、外部の刺激にもっと貪欲になれなかったのは後悔として残っている。大学の知らない講義に潜ってみたり、定期券の範囲の駅で探索してみたり、美術館・博物館の学割を利用してみたり、長期旅行に行ってみたりと、大学生でないとできないことがもっとできたのではないかと思っている。単位を気にしなくていい勉強をするため、大学の図書館にこもってみるのもいいのではないだろうか。知った顔とすれ違えば見えてくる事もあるかも知れない。