全塾留年生扶翼会
私は北海道の医師である父の元に生まれた。
北海道では、医師の息子は医師になる以外許されないという風潮が根深く、
我が家も例外ではなかった。そんなわけで私は物心着いた時には医学部を目指していた。
こう書くと、我が家は教育熱心で、留年など許されないのではと思うだろうが、
そうではなかった。我が家で重要視されるのは、大学受験である。
名問大学の医学部に合格することが重要であり、
医学部入学後の成績はそれほど重要では無いのだ。例を2つ挙げてみよう。
東大医学部を卒業したタダの町医者と、出身大学は3流医大だが、偉大な功績を残した医学者がいたとする。
我が家では前者の方が偉いのである。東大理2から進振りで東大医学部に編入した者も、我が家の価値観では、所詮、
受験で医学部に入れなかった敗者にすぎないのである。
話は逸れたが、我が家はそういう環境である。
現に父も医学部時代に留年しており、
留年話はしばしば我が家でネタにされていた。
昔から我が家には、大学では留年しても良いという雰囲気が立ち込めていた。
月日は流れ、私は医学部に合格した。それも都内の医学部である。
田舎の男子校を飛び出し、人生初の一人暮らし、たどり着いたのは大都会新宿である。
そこで私は18年間の鬱憤を晴らすように遊び尽くした。
真面目に勉強をすることはなかった。そして2年ほど経ったある日、同級生から1本の電話がかかってきた。
「今日の試験、なんで来なかったの??」
痛恨の極みである。あまりにも大学をサボりすぎていたため、その日、進級試験があるということを知らずにいたのである。留年したことは、思いのほか心にくるものがあった。
同級生が先輩になり、後輩が同級生になるのは、何とも複雑な気持ちだ。
この時期から、私の価値観も徐々に変わり始めた。
きっかけは、もっと“ダメな奴”の出現である。
この頃、同時期に留年したことがきっかけで、ある友人と知り合った。
その友人は、「良い話のネタができた」と留年したことを喜び、留年を機会に酒の量が増え、
異性との遊びも激しくなっていった。
しまいには、大学外の怪しい交友関係を深め、2留目への道を突き進んでいた。
そんな友人の姿を見て、私は「コイツは将来への不安がないのだろうか」と感じていた。
ここで、追い打ちをかける出来事が起こる。
真面目に試験勉強をしてみると、
意外と優秀な成績を収めたのである。
この出来事で、私は自分の学力に自信を取り戻し、
勉強が楽しいと感じるようになっていったのである。
その後様々な出来事で、価値観は変わっていったが、順調に進級を重ね、
無事医学部を卒業できる状態になった。今になってみると留年したダメージはほぼなく、
良い思い出である。将来自分の子供が留年したとすれば、肯定はしないが否定もしないだろう。